「そもそも山伏の二字、その儀は如何に。修験道の儀は如何に」
「山伏とは、真如法性の山に入り、無明煩悩の敵を降伏するの儀、修験道とは修行を積みてその験徳を顕わす道にて候」
※ 真如法性とは「ありのままの姿」の義にして、大自然の中に神仏を感得する素直な心、即ち「ありのままの心」で見える世界を云うものなり。
【絶壁をよじり命がけの修行をする山伏】
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「修験道の開祖は如何に」
「修験道の開祖は役行者神変大菩薩なり。舒明天皇の六年一月一日大和の国茅原の里にご誕生、十七歳にして葛城顕の峰に入山し、十九歳にして大峰山に修行、密の峰を開き給う。斉明天皇の四年霊瑞を感じ箕面山の瀧窟に於いて龍樹菩薩を拝して修験の秘法を受け給い、大峰山順逆三十三カ度、御年六十八歳にして箕面山天井ヶ岳に於いて昇天し給う」
【秩父黒山山中にある役行者像】 |
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「修験道の本尊は如何に」
「総じては胎金両部の曼陀羅と云うべきも、修行専念の本尊は、大日如来の教令輪身、大忿怒形の不動明王にて候」
※教令輪身とは、凡愚の衆生を教化救済するために敢えて忿怒のお姿をされている、との意なり。
【弘潤院のご本尊。しあわせ不動明王】 |
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修験道は、日本宗教の源流として、あるいは基層宗教として、最も伝統のある宗教であることは誰もが認めることであります。しかし、明治五年(一八七三年)の「修験道廃止令」により明治政府から徹底的な弾圧を受け、以来太平洋戦争の敗戦まで完全に断絶するという苦難の歴史を歩んできました。
この経緯を哲学者の梅原猛氏は「神殺しの日本」(朝日新聞社)の中で、「それは従来日本を支配してきた神仏の殺害であり、それが現代日本の精神的頽廃(道徳の崩壊)の根本的な原因である」と指摘されております。しかし、私は、修験道がこの間廃絶されて良かったと思います。それは、日本人のほとんどが正気を失ったあの狂気の時代、多くの宗教が自己の宗教的信念を曲げて戦争協力に奔走するなかで、修験道のみが皮肉にも廃絶されていたがためにそれを免れたからです。いわば、修験道こそ、明治以降の過度な近代化(=西欧化)に喘ぎ、民族としてのアイデンティティを失いつつある日本人が回帰すべき、最も「ピュア」な宗教ということができます。今この修験道の復活こそ、荒廃しきった日本人のモラルの再構築と、精神的美質の復興につながるものと確信をしております。
それでは、修験道とはどのような宗教なのでしょうか。修験者が野外で行う採燈護摩の冒頭に行われる山伏問答、そこにこの答えが簡潔に述べられています。そのポイントは@山伏、修験道の定義、A修験道の開祖は、B修験道の本尊は、C最後に行者の目指す世界、の四点に尽きます。
「そもそも山伏の二字、その儀は如何に。修験道の儀は如何に」
「山伏とは、真如法性の山に入り、無明煩悩の敵を降伏するの儀、修験道とは修行を積みてその験徳を顕わす道にて候」
真如法性とは「ありのままの姿」をいいます。しかし、それは漫然と視界に入った世界ではありません。山は神の世界、仏の世界であり、自然の中に神仏を感得する素直な心、即ち「ありのままの心」で見える世界が真如法性です。そういう鏡のような清浄な心に神仏が投影されて、はじめて己の心に生ずる無明煩悩を退治することができます。そういう境地を目指し、山にいるときも里で暮らすときも、ひたすら刻苦勉励して精進すること、それが修行です。しかし、自らの心が清浄になるだけでは修行が終わったとは言えません。ここにいう験徳という字は、大変深い意味があります。論語に「徳は孤ならず、必ず隣有り」とあります。また、伝教大師最澄のお言葉に「一隅を照らす」とあります。いずれも同じ意味の言葉です。いくら修業を重ねて自分の心身を清浄にしていても、世間から超然として、修業で得たものを周囲の人々に分け与えなければ宝の持ち腐れです。修行で培った徳をあまねく衆生に施してはじめて修行が完遂する、これが「験徳」という意味です。よく修行で超能力や霊能力、いわゆる験力を身につけるのが修験道と考える人がいますが、それは間違っています。「験力を得る」のではなくて「験徳を顕わす」のが修験道なのです。
それでは、修験道を始めた開祖は誰でしょうか。役行者(えんのぎょうじゃ) が開祖と言われています。後に神変大菩薩の諡号を光格天皇より頂いておりますので、 我々修験者は「役行者神変大菩薩」とお唱えしております。以下、山伏問答に述べられているその事績をわかりやすく書き直しました。
「役行者は、舒明天皇の6年1月1日大和の国(今の奈良県)茅原の里で生まれ、17歳で葛城山に入山、更に19歳で大峰山に修行、斉明天皇の4年霊瑞を感じて箕面山の瀧窟に於いて龍樹菩薩を拝して修験の秘法を授かり、大峰山を駆け巡ること33回、68歳にして箕面山天井ヶ岳に於いて昇天されました」
この中で、大事なことは四つあります。
一つは、役行者が舒明天皇の6年(634年)に生まれ、702年に68歳で昇天、即ち亡くなったということです。即ち、今日の日本仏教を生んだ空海(774-835)や最澄(?-822)も若い時山岳修行を行いましたが、その約1世紀も前に活躍した人だということです。これには二つの意味があります。
@役行者の創始した日本独自の山岳宗教である修験道は、その後に生まれた多くの神道や仏教のいわばベーシックな基層宗教であるということ、
A修験道は明治以降戦後に至るまで断絶していたため誤解を受けがちですが、いわゆる新興宗教では決してなく、むしろ我が国の最も歴史のある伝統宗教である、
ということです。
二つ目は、役行者の事跡のほとんどが、葛城山や大峰山など山岳での修行であるということです。これにも二つの意味があります。
@修験道の本質が山岳での修行そのものにあること、
A役行者は私達行者にとって偉大な先達であるとともに、修行中いつも行者を温かく見守ってくれる仲間である、ということです。
三つ目は、龍樹菩薩から修験の秘法を授かったことです。龍樹菩薩は釈迦入滅から7百年後に生まれ、修行者の悟りを目的とした小乗仏教から、衆生済度を目的とした大乗仏教へ歴史的な転換を果たしたインドの高僧です。その龍樹菩薩から修験の秘法を授かったということは、修験道の目的が大乗仏教の根幹である衆生済度にあることを示しています。即ち、修験道の修行は、行者が修行で得た人格的叡智が自己満足に終始することなく、必ず利他行につながらなければならない、ということです。これこそが「験徳」という意味なのです。
四つ目は、68歳で昇天された、という意味です。これは仏教的な表現ではなく神道的な表現です。天皇より頂いた諡号に「神変大菩薩」とあるように、役行者は神でもあり、菩薩でもあったわけです。即ち、その後千年近くも宗教的伝統として我が国に根付いた神仏習合の象徴的な存在だったのです。神仏習合は、梅原氏が「神殺し」と言われたように明治の神仏分離により決定的なダメージを受けました。しかし、今日、修験道にとっても、日本人の伝統的な精神世界の再生にとっても、神仏習合思想を正しく理解し、現代の日本に相応しい形で復活するこそが必要なことだと考えます。
それでは、修験が常に礼拝する本尊はなんでしょうか。これも山伏問答にその答えがあります。
「総じては胎金両部の曼陀羅と云うべきも、修行専念の本尊は、大日如来の教令輪身、大忿怒形の不動明王にて候」
胎蔵界と金剛界の両部曼陀羅とは、いずれも大日如来を中心にあらゆる諸仏諸菩薩等が整然と配列されている密教的世界観を言います。我々修験は自然そのものを曼陀羅と考え、そこに整然と配列された諸尊全体を「大日本国中の神祇」と称します。これには、多くの山里にあるお地蔵様や道祖神、また都会にもある小さな稲荷社等も含まれます。
しかし、修行中専念する本尊は、世界の中心である大日如来が凡愚の衆生を済度するため、怒りの姿に変身された不動明王であるとします。なぜ怒りの姿でなければならないのでしょうか。それは厳しい修行に打ち克つ強い精神力を求めたからだと思います。実は、修験者が着る山伏衣裳はこの不動明王の姿に象っています。修行を通じておのれと本尊である不動明王、更には宇宙に遍満するあらゆる神仏と一体の境地になることを目指しているからです。
最後に行者の目指す「神仏と一体となる」ということは、どのような心理状態をいうのでしょうか。それは自己の深層にある根源的な意識、長い長い人類の経験がそこに蓄積されてきた潜在的意識、即ちユング心理学の集合的無意識や仏教でいう阿頼耶識といわれる根源的な意識を覚醒させるということであります。要約すれば山伏の修行とは、自己の潜在意識の中に潜む元型―本来的自我―を体験的に自覚し、それよりも低い次元の意識である無明煩悩から自己を解放することなのです。
といってもなかなか理解できないことと思います。修験道は「実修得見」即ち実際に修行して会得することを旨とします。もし感心のある方は是非修行に御参加下さい。普段意識しない、しかし何かしら懐かしい新たな自分を、そして世界を発見することができるでしょう。
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