宗教と気功01
 
「宗教」と「気」との間には密接な関係がある。
従来信仰によって物事が動く原動力は、神様/仏様/"ご本尊様"によるものと思われてきた。だが真相/からくりはそれとは異なる。本稿ではその真相を「気」を手がかりにして説明してゆきたい。
 
[1] きっかけ
 私は大学時代法学部法律学科に属していた。法学基礎論のゼミであったが、指導教授とは最初からウマが合わなかった(その上思想も水と油であった)。4年生になった4月には「その指導教授が死んだという知らせが入った」という夢を見たことさえある。4年生最後の時期には「論文指導」で衝突し、卒業できるかで悩み、恐怖と憎悪でノイローゼになった。抗鬱剤は完全に無効だったので強いて病名を付ければ、抑鬱神経症とでもいうべきであろうか・・・。まるで鉛の霧が肩から頭にかかってるような気分だった。こんなマトモでない精神状態の上に、身分は(大学院受験)浪人であり、教会では「大学出てブラブラ」と陰口され、散々であった。
 
そんなある日横浜地下街の書店で偶然目にした2冊の本、即ち『「気」は挑戦する』宝島社、『「気」が癒す』集英社文庫編集部編、を買い込んだ。「気功をやれば気が晴れるかもしれない」と勝手な効用を期待したのである。
 
山口令子氏の『「気」には無限の力がある』(三笠書房知的生き方文庫)で少しずつ独習を始め、気感が得られるようになってからは王瑞亭『気功師になるための気功―少林気功内勁一指禅』ベースボールマガジン社、で本格的に力を入れ、それなりに力が付いてきたのを実感するようになった。以前はアレルギー性鼻炎で、朝起床してから体温が上がるまで2時間ほどは10回も20回も鼻をかんでいた始末であった。それはピタリと止まったのである。ゼロとは言わないが、まぁ2回程度か。要するにごく普通になったのである。だが勝手に期待していた「気が晴れる効用」は一向に現れなかった。そんなある日、前掲の王瑞亭本で合掌そのものが気功であることが示されているの (1)を見て私の脳裏にあるものが閃いた。
「あ、そうか、この力で祈れば良いんだ!」と気付いたのである。.
 
(1)王瑞亭 『 気功師になるための気功 ― 少林気功内勁一指禅 』ベースボールマガジン社、78-79頁。
 
[2] きっかけから第一の悟りまで
[2-1]
 祈りが、祈りの内容(=情報)を、「気」という情報媒体に乗せて外界/世界/他者へと発信する行為であることは分かった。発する「気」の粒子が"細かい" ほど単位時間あたりの情報収容能力は上がり、また気の力が"強い"ほど大きな分かりやすい結果を招くのである。これはあたかもラジオ放送局に似ている。周波数が高ければより情報量の大きいテレビ放送の発信すら可能となり、出力(W数)が大きくなればより遠くまで届く(つまり社会での存在感が大きくなる)。それと同様である。余談だが創価学会員の「気」の力はこの出力が大きい電力のようなものであり、修道士の発する「気」の粒子の細かさは周波数が高い電波のようなものである。
 
「現世利益の宗教はいけない」と教え込まれて、鵜呑みにしていた私は、「あれは誤りだった。宗教とは現実に物事が動く道理や原理なのだ。そしてその車のエンジンでいうガソリンに相当するのが「気」である」と考えるようになった。今となっては恥ずかしい話だが私は「これで宗教というものがなんであるかが分かった」というつもりになっていた。しかし当時の私には肝腎の「ではいかなるメカニズムで"神の導き"が起こるのか?」が未だ分かっていなかったのである。
 
[2-2]
人が気功道場に通い始めたとして、それなりに気の力がついてくると、その人の周囲の人間関係や事物がガタガタと動き始め、そして整理され、終いには収まるべきところに収まる。それはちょうど創価学会に入会して毎日がむしゃらに手を合わせていると物事がガタガタ変化を起こすのと同じである。創価学会員は残念ながらそれを"ご本尊様"のお陰であると思いこんでしまう。しかし事の本質は合掌という名の気功にあるだ。創価学会員・顕正会員の目の前の"ご本尊様"を取り去ったところでその創価学会員・顕正会員が同じように手を合わせて題目を唱えれば出てくる結果は同じなのである。これを世間の人たちは「信じる力って凄いですね」といってそれで説明がついたと思いこむ。
 
 それは創価学会員・顕正会員が、事物の動きの源泉が"ご本尊様"にあると思いこんでいるのと表裏の関係にある。だから創価学会員も世間の人も「創価学会の信心をやめると悪いことが起きる」という脅し文句の本質が分かっていないのである。真相は気功をやってた人が気功を止めたのと同じ状態になることである。決してそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
 
 
 さて白隠禅師はある時ある人に念仏をさせようとした。そしてなんと念仏何回あたりいくらの金銭をやると約束したのである。言われたその人は金欲しさに念仏を始めた。つまり彼は「弥陀の本願」を信じていないのである。そして金目当てに念仏=合掌して「なむあみだぶ」と発音していただけの彼がやがて白隠に「もう金は要りません。念仏だけで結構です」と申し出たという。
 
 これは20世紀では創価学会員や顕正会員が頻繁に使った手口でもある。ある創価学会員Aが知人のBに対して創価学会へ勧誘しようとした。そこでBは「よし、では一ヶ月だけ信心(=合掌して題目を唱える)してみよう。それで何も起こらなかったら止めるからな」と。創価学会員Aは「それで良い」と請け負った。そしてBは初めから「ほらみろ!何も起こらなかったじゃないか」と言ってやろうという魂胆なのである。だが現実にはBの予期に反して何事かが起こる。それはなんらかの超越的なものを思わざるを得ない出来事だった。やがてBは本格的な創価学会員となっていった・・・。
 
 一遍上人は「南無阿弥陀仏と名号唱えれば、信心決定(けつじょう)すべきなり」(『一遍上人語録』岩波文庫)と述べている。これだけ読むと口称念仏しさえすればよさそうに見える。しかし本当は念仏するなら合掌しながらするべきなのである。
 ちなみに木魚が日本で普及したのは江戸時代であり、法然・親鸞・一遍上人らの鎌倉時代には日本には存在しなかった。だから念仏は合掌にて行っていたのであろう。
 
[2-3]
 既に書いたように、毎日手を合わせる習慣を身につけると、周囲の事物が動き出すようになる。そしてその動き方は恰も、自分の一切を知っていてすべてを良きに計らって下さる人格性を持った超越的な主体があるかのように感じるようになる。古(いにしえ)の人はそれを「神」と呼んだのだろう。
 
[3] 本論
3-1
 
 私はクリスチャンである。だからお祈りの習慣がある。その祈りの力の源は実は「神」でも「仏」でも"ご本尊様"でもなく、「気」の力によるものである。そして合掌は実は最もシンプルな気功なのである。だから手を合わせて南無南無とやると病気が治ったという類の話は実は「気功をやったら病気が治った」というのと同義に過ぎない。
 
 私は念仏の経験もあるが、その時違和感をもったのは「念仏」に対してではなく、念仏しながら木魚をたたくことであった。せっかく念仏に時間を使うなら合掌しなければ損ではないか?と思うのである。
 お祈りをサボり続けることを習慣にしてしまった"クリスチャン"も、それは単にキリスト教の思想を持ってるだけで、キリスト教の"信仰"を持ってるとはいえないと見なさざるを得ない。
 
 
3-2
 合掌は最も簡単な気功であると書いた。密教僧は印契を指で結ぶが、これにより気の流れが変わるそうである。そして気功の達人ならそれが分かるという。
 
 さて私の手元の資料(『となりの創価学会―内側から見た「学会員という幸せ」 (別冊宝島―90年代の宗教を考える (225)』)によると創価学会員は、一日平均49分間程合掌唱題し、事に臨んでは一日三時間も手を合わせるという。翻って念仏教徒の場合はどうだろうか?創価学会の教えよりも明らかに高度な宗教思想を持っているにもかかわらずなぜ彼ら(創価学会員)のような強い確信を持てないのだろうか?
それはやはり合掌の絶対時間数が足りないからである。
 
「南無阿弥陀仏と名号唱ふれば、信心決定すべきなり」
                    一遍
 
要するに合掌しながら(特に労宮のツボを合わせる)念仏を唱えれば何事かが起こって当然である。信心決定とは信仰の確信を得るという意味である。
 
 合掌は気功である以上、毎日数十分でも多くやったほうが「気」の力がつくのは当然である。すると自分の周囲の物事がガタガタと動き始めるのである。そしてその動きはまるで、自分のことをすべて知っていて、すべてを良きに計らってくださる人格的な主体があるかのように思いなし、それを古の人は「神」と呼んだのであろう。
 
 「鰯の頭も信心から」というが、実は拝む/祈る人の目の前にあるのが仏像であろうが、鰯の頭であろうが、目に見えない神であろうが、事物を動かす力の源は合掌によって付く「気」の力によるものなのである。
 
 古代人ならいざしらず、近代を経た現代人なら、信仰もただ素朴な信心深い素質によって信仰するのではなく、宗教のからくりというものを踏まえた信仰を持ちたいものである。
 
[書評]
気功師になるための気功―少林気功内勁一指禅
  * 王 瑞亭(著), 林 茂美(訳)
   ベースボールマガジン社。1020円。
 
   気功を独習するのに極めて良い本。
   伝統功法であり高級功法に分類されるが、もちろん本書は初級のみである。それは仕方がない。だが非常に強い力が付くことは請け負える。意念が不要というのも独習者にはやりやすい。
 
 
気」とは何か―人体が発するエネルギー(NHKブックス)
  * 湯浅 泰雄 著。日本放送出版協会。914円。
 
   著者は哲学者湯浅泰雄氏。専門は身体論。NHKブックス613。
   気功の練習本ではなく、「気」を科学的に測定/論考したものを読みたい人に強く勧める。
 
気は挑戦する―二十一世紀は「気の時代」だ! (別冊宝島 (103))
 
  * 気は挑戦する―二十一世紀は「気の時代」だ! (別冊宝島 (103))
  * 元々別冊宝島103号だったが文庫化されていると思う。こちらは別冊宝島なので多くの執筆者によって成り、編集者が選んだ人で〆の論文で終わる構成は同シリーズの共通項である。
 
 湯浅泰雄氏の本と同様「気」とは何なのかを知りたい人には是非読んで貰いたい。湯川秀樹の数式すら登場する。科学的に「気」を考えたい人向け。