["油そそがれた者"と預言者との関係]
歴代志上16:22、詩編105:15にこう書いてある。
「わが油そそがれた者たちにさわってはならない。我が預言者たちに害を加えてはならない」。
それではこれをやるとどうなるのか?が問題である。答えは
「〜罪せられ、災いにあう」(エレミヤ書2:3)
のである。ダビデは油そそがれた者である。だがダビデは政治家であって宗教家ではない。それでも彼はアンタッチャブルである。”その油注がれた者”が宗教家である場合、これが預言者ということになる。つまり油注がれた者であることは預言者であることの単なる必要条件ということになる。
図式化すると預言者 > 油そそがれた者 > ローマ教皇(ペテロの後継者) ということになろう。
私にはなぜあんなに多くの人たちがバチカンでペテロの像の足に接吻するのかが理解できない。そしてローマ教皇というのが神から直接任命された者とも考えては居ない。また枢機卿会議で選出されるポジションであるそれはあくまでペテロの後継者であってイエスのそれではない。[ご注意]
私はキリスト教辞典の類からは、私自身の満足のいく説明を見いだすことはできなかった。だから自分の体験に基づいて聖書から絞り出す亜しかなかった。キリスト教事典類の執筆者たちはおそらく文献に当たる以外しか経験がないのではないのではないか、と私は大胆に憶測している。
「それでは"油そそがれた者や預言者の人生は楽しいのか?」
彼らは果たして、恰も劇画の主人公がブランランデーグラスを片手に持ち、「フッ、俺に触れると怪我する」とほくそ笑んでいるような、”神から特別に選ばれた者”だけが味わうことのできる痛快な日々を送っているのだろうか?答えは異なである。むしろ逆である。彼らは日々が不愉快で苦痛でたまらない人生を送るのである。むしろ彼らの苦しみことが元来の意味である選ばれた者の宿命なのである。ダビデが詩編で散々グチャグチャと愚痴を並べ立てていることを思い出して欲しい。そして愚痴を言うに至る事情が全く描かれて居ないことにも特に留意して欲しい。ダビデが事情を話さないのは「話すわけにはいかない事情があるから」である。
そしてこれは同様にイエスが十字架上で「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし」とうめき声をもらしたがが全く記述されていない(=イエスはぶちまけていない)ことと通じるのである。
「事情を他者に話すわけにはいかない理由」がまた、ダビデやエレミヤやイエスの苦しみを相乗的に増すのである。
油そそがれた者であるアンタッチャブルの実情が如実に描かれている箇所が以下である。「あのモルデカイ、即ちあなたがその人の前に破れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に破れるでしょう。」エステル記6:13。
すくなくともキリスト教を「奴隷道徳」と捉えるのは完全に誤ったイメージである。